「意識を軽視することや、大規模コンピュータのシミュレーションで捉えるのは誤っています」サールは語りかける。ここでは、100万ビューを超える John Searle のTED講演を訳し、意識の4つの特徴とそれを生物学的現象と考えることの重要性について理解する。
要約
哲学者ジョン・サールが意識の研究を擁護する主張を展開します。また、真剣な意識の研究に対する反論を体系的に論破していきます。認識の原因となる脳内の処理過程がわかるにつれて、意識を生物学的現象と考えることが重要になります。またサールは、意識を大規模なコンピュータ・シミュレーションと捉える意見を否定します。(TEDxCERNにて収録)
John Searle has made countless contributions to contemporary thinking about consciousness, language, artificial intelligence and rationality itself.
1 意識は私たちが生きる上で最も重要なもの
「意識」についてお話しします。なぜ意識を取り上げるのか? それは「意識」が科学や哲学の世界で 奇妙と言っていい位軽視されたテーマだからです。奇妙だと思うのは 意識は私達が生きる上で最も重要なものだからです。これは論理的に考えれば当然です。意識は 生きる上で大切な あらゆるものの必要条件なのです。科学や哲学 音楽や芸術などに関心があっても ゾンビや昏睡状態の人には意味がありません。だから意識が一番大事なのです。2つ目の理由は 人々が意識に ― 関心を持ったとしても おかしなことを主張しがちだからです。たとえ そんなことは言わず 真剣に取り組んだとしても 研究は進んでいません。
2 意識とは生物学上の問題だと考えた
私が初めて関心を持ったとき意識とは 紛れもなく 生物学上の問題だと考えました。だから機械を使って脳内部の機能を知ろうとしました。そこでカリフォルニア大学サンフランシスコ校に行って 一流の神経生物学者達と話したのですが 煩わしそうにされました。厄介な質問を受けた科学者にはありがちなことです。中でも強く印象に残ったのはある高名な神経生物学者が 憤慨して口にした言葉です 「我々の分野では意識に関心を持ってもいいが 教授になって終身在職権を得るのが先だ」私は長い間このテーマに取り組んでいます。今なら意識の研究で終身在職権を得られるかもしれません。だとしたらこの分野も進歩したものです。
3 宗教的な二元論の伝統と科学的唯物論者の伝統
では なぜ意識の研究に奇妙な抵抗感や敵意を持つのか? 私は知的文化における2つの特徴が 原因になっていると考えます。両者は相反する立場をとっていますが 実際は共通する前提に立っています。一つ目の特徴は宗教的な二元論の伝統です。つまり意識は物質世界に属さず ― 心的世界の一部だという考え方です。意識は魂に宿り 魂は物質世界に属さないという考え方です。これが神の教え魂と不死の伝統です。一方 自らこれに対立するとしながら ― 最悪の前提は容認する伝統があります。強硬な科学的唯物論者の伝統です。意識は物質世界に属さずそもそも存在しないか ― コンピュータ・プログラムとか 何か下らないものの一種で どちらにせよ科学の対象ではないという見方です。よく胃が痛むような議論になりました。こんな調子です 「科学は客観的で意識は主観的である ― したがって意識の科学は存在しえない」
4 意識は光合成や消化や細胞分裂と同じ生物学的な現象
私達はこの2つの伝統に縛られ身動きができません 2つの伝統から逃れるのはとても難しいことです。今回 本当に伝えたい事はただひとつ ― 意識が生物学的な現象だということです。光合成や消化や細胞分裂と同じです。これらの生物学的現象をみなさんもご存じでしょう。こう考えれば意識に関する厄介な問題は 全てではないにせよほとんど解消します。そんな問題をいくつか見ていきます。
5 意識に対するおかしな主張
さて 意識に関するおかしな主張を いくつか紹介しましょう。1「意識は存在しない」 意識は夕日と同じで錯覚に過ぎない。科学的に言えば夕日も虹も錯覚だ。だから意識も錯覚である。2「意識は在るかもしれないが何か別のものである ― 意識は脳の中で動くコンピュータ・プログラムだ」。3「唯一存在するのは行動だけ」 行動主義のかつての影響力を思うと恥ずかしくなりますが その話は後にしましょう。4「意識は存在するかもしれないが 物質世界に影響は与えない」 「心的なものが何か動かせるとでも?」 誰かがこう言うたびに「見せようか?」と聞きたくなります。見てください私が意識的に手を上げようとすれば こいつは上がるんです(笑)それに考えてください 私達はこうは言いません「腕はジュネーブの天気みたいだ ― 上がる日もあれば上がらない日もある」 そうではなく上げたい時には 上がるのです。
6 意識とは感情、感覚、認識のあらゆる状態から成るもの
仕組みを説明しましょう。ああ 定義がまだでしたね。定義がなければ説明はできません。意識の定義は難しいと言われます。でも科学的な定義でなければ むしろ容易だと私は考えています。科学的な定義は まだできませんが 常識的な定義なら こうです。意識とは 感情 感覚 認識のあらゆる状態から成るものです。意識は 夢を見なかった場合朝 目覚めた時に始まり ― 1日中ずっと続きます。終わるのは 眠るか死ぬか 意識がなくなる時です。夢は この定義では意識の一種です。これが常識的定義です。検討するのは この定義です。当てはまらないものは意識ではないと考えます。
7 意識にまつわる謎は水の流動性に似ている
こう考える人もいるでしょう「仮にその通りだとしても ― そんなものがどうやって現実世界に存在できるのか?」哲学を学んだ方ならご存じでしょう。これが かの有名な心身問題です。この問題の単純な解決策はこうです。私達の意識状態は例外なくすべて ― 脳の低次の神経生物学的プロセスから生じ より高次の機能 または ― システムの性質として現れます。意識にまつわる謎は水の流動性に似ています。そうでしょう?流動性は水分子が液体を ― 放出しているわけではなく システムの状態です。ちょうど容器いっぱいの水が分子の挙動に従って 液体から固体に変化するように 脳も分子の動きによって 意識がある状態から無意識の状態へと変化します。有名な心身問題もこんなに単純なのです。
8 意識は実在していて他のものに還元できない
次に もっと難しい問題に取りかかりましょう。意識の様々な特徴そのものを特定することで 先ほどあげた4つの意見に反論していきましょう。意識の第一の特徴は 実在していて他のものに還元できない点です。意識の存在は無視できません。現実と錯覚の違いとは 意識の中での事物の見え方と 事物の実際の在り方の違いです。フランス語で “arc-en-ciel”(虹)と言うように 意識の中では 虹は 空にかかるアーチのように見え 太陽は 山の向こうに沈んでいくように見えます。意識の中では そう見えても実際に起きている事とは違います。でも事物の見た目と 実際の在り方が違うことを理由にして 同様の区別を意識の存在に対して当てはめることはできません。なぜなら意識の存在自体を問題にする場合 ― 自分に意識があると思えるのは そこに意識があるからです。専門家が次々にやってきて私にこう言ったとします 「我々は一級の神経生物学者で 研究の結果 君には意識がないという結論に至った。君は精巧なロボットだ」 でも「そうかも知れない」などとは考えません。そんなことを少しも考えないのは この件に限っては デカルトが正しく ― 自分の意識の存在は自分では疑えないからです。これが意識の第一の特徴です。実在していて排除できません。意識は錯覚であると指摘したところで 普通の錯覚のように無視することはできません。
9 意識状態はそれぞれ固有の質感を備えており、主観的なもの
意識の第二の特徴は 私達にとって厄介な問題の種になっています。すなわち私達の意識状態は それぞれ固有の質感を備えているという点です。ビールを飲むときの感覚には 所得税を計算するときの感覚や 音楽を聴くときの感覚とは違った何かがあります。この性質が第三の特徴につながります。すなわち意識状態とは人間や動物といった主体 ― つまり意識状態を経験する何らかの自己の 経験として存在するしかないため 当然 主観的なものです。意識を持つ機械ができる可能性はあっても 人間の脳が意識を持つ仕組みが不明なので 今のところ そんな機械を作れる状況ではありません。
10 意識は統合された意識の場として現れる
もう一つの意識の特徴は 統合された意識の場として現れることです。私は単に目の前にいる人々の映像と 自分の声と床を踏む自分の靴の重さとを 知覚するだけではありません。これらの知覚は前後に広がる1つの大きな意識の場の 一部として捉えられます。これが意識の大きな力を 理解するカギとなります。まだロボットで実現するのは不可能なことです。残念ながらロボット工学の分野で 意識を与える方法が発見されるまで 意識の場を持つ機械は手に入らないのです。
11 意識は行動の原因として機能する
この統合した意識の場という ― すごい特徴に続くのは意識が 私達の行動の 原因として機能するという特徴です。先ほど私は手を上げることで科学的に示しましたが どんな仕組みなんでしょう? 脳の中で考えたことがどういう仕組みで 物体を動かすのでしょう? 答えをお教えしましょう。細部はまだわかりませんが 基本的な部分はわかっています。一連のニューロンの発火が起こり 運動ニューロンの軸索末端に信号が到達すると アセチルコリンが分泌されます。「哲学用語」を使ってしまいましたが 運動ニューロンの軸索末端でアセチルコリンが分泌されると イオンチャンネルですごいことが次々起こって この腕が上がるのです。ここまでの話を考えてみてください 手を上げるという意識的な決定と まったく同一の事象なのに 別のレベルでは感覚的で心的な性質があると 説明されるのです。意識的な決定とは脳内の思考であると同時に アセチルコリンをせっせと分泌することや 脳の運動野から 腕の神経線維までの間に生じる ― その他の様々な現象でもあるのです。ここからわかるのは私達が意識の問題を 語る時の表現は時代遅れだということです。同一の事象を神経生物学的にも 心的にも説明できますがそれでも事象は一つです。それが自然の在り方なのです。こうして意識は 原因として機能できるのです。
12 意識は文法に加えて内容、意味も持っている
このことを念頭に 意識の様々な特徴を踏まえて 先ほどの反論のいくつかに答えていきましょう。最初の反論は「意識は錯覚で存在しない」です。これにはもう答えたので気にしなくていいでしょう。2つ目は驚くほど影響力があって今でも耳にするかも知れません 「意識が存在するとしても本当は何か別のものである それは脳の中で動くコンピュータ・プログラムで 意識を作るには適切なプログラムを手に入れればいい。ハードウェアは気にするなプログラムを持てる位 ― 豊かで 安定していればどんなものでもいい」これが誤りなのははっきりしています。コンピュータについて少しでも考えたことがある人なら 間違いに気づくはずです。情報処理の定義は記号を操作することだからです。普通は0 と 1 ですがどんな記号でも使えます。あるアルゴリズムを2進コードでプログラムできることが コンピュータ・プログラムを定義する特徴です。でもこれは純粋に文法的記号的なものです。実際の人間の意識にはそれ以上のものがあります。意識は文法に加えて内容も持っています。つまり意味を持つのです。
13 意識が作る現実は観察者から独立している
私がこの議論をしたのは ― 考えるのもイヤになりますが30年以上前のことです。ただ私の話の背後には 重大な論点があるので簡単にお話しします。意識が作る現実は観察者から独立しているという考えです。意識は お金とか資産とか政府 ― 結婚 CERNでの会合カクテル・パーティーや ― 夏休みといった現実を作ります。これらはすべて意識が作り出すものです。その存在は観察者の捉え方に依存します。意識を持つ行為者の捉え方次第で 紙切れが お金になったり建物群が大学になるのです。
14 情報処理は意識による解釈なしに存在しない
ここで情報処理について考えてみてください。それは力や質量や重力のように絶対的なものでしょうか? それとも捉え方によるものでしょうか? 確かに本質的な部分もあります。2と2を足せば4になります。誰がどう考えようと変わりはありません。でも私が電卓を取り出して 計算する場合 本質的な事象は 電気回路と その挙動だけです。それだけが絶対的な事象で 残りはすべて私達の解釈です。情報処理は意識による解釈なしには存在しません。意識を持つ行為者が処理を実行するか ― 解釈可能な処理をする機器を持つかのどちらかです。処理自体はいいかげんなものではありません。機器にはお金をかけているんですから。一方 混同しがちなのが 「現実」が備える特徴としての主観性・客観性と ― 「主張」の特徴としての主観性・客観性です。ここでの話の要点は こうです。客観的に真である主張をする ― 完ぺきに客観的な科学は可能です。たとえそれが主観的な存在である領域 ― つまり人間の脳内に存在する感覚や感情 認識といった ― 主観からなる領域が対象であってもです。したがって「意識は主観的で科学は客観的だから 客観的な 意識の科学は不可能」と言うのは冗談みたいな話です。客観性と主観性に関するできの悪い冗談です。領域の在り方が主観的であっても 客観的な主張をすることは可能です。事実 神経科医はやっています。実際に痛みを訴える患者がいれば その痛みを客観的科学的に捉えようとします。
15 意識を科学的な分析の対象として認めるべき
さて 全て論破すると約束しましたが 時間も限られていますから あと少しだけ反論します。私は先程 こう言いました「行動主義は少し考えれば間違いだとわかる ― 私達の知的文化における最大級の恥である」 だって 精神状態と行動がイコールだと思いますか? 例えば 痛みを感じることと痛みに対する反応との 違いを考えてみてください。痛みを感じていなくても 痛いふりをすることは可能です。だからこれは明らかな誤りです。なぜこんな間違いをしたのか? 間違いの元は ― 過去の文献を読むと繰り返し登場しますが 行動主義者の考えでは意識を他のものに還元できない存在と認めたら 科学を放棄することになり 過去300年間の人類の進歩も希望も すべて ― 放棄したことになるというのです。皆さん 覚えておいてください。意識は 純然たる生物学的な現象で 他の生物学的な現象や 科学領域の現象と同じです。意識を 科学的な分析の対象として認めるべきです。ありがとうございました(拍手)
最後に
意識の研究に嫌悪感を持つ理由は、宗教的な二元論と科学的唯物論の伝統の2つ。意識とは感情、感覚、認識のあらゆる状態から成るもの。意識の特徴は不還元、主観的、統合、行動の原因の4つ。意識は文法に加えて内容、意味も持っている。情報処理は意識による解釈なしに存在しない。意識の問題を語る時の表現は時代遅れ。「いま、ここ」が重要。
和訳してくださった Kazunori Akashi 氏、レビューしてくださった Emi Kamiya 氏に感謝する(2013年5月)。
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