前回は、官僚内閣制から議院内閣制にするための改革 公務員制度改革入門についてまとめた。ここでは、税率を上げるのも下げるのも地方の責任でやれ 地方分権入門について解説する。
本当に地方ができないことを国がやる
本来の意味の地方分権はヒト、モノ(権限)、カネ(税源)全てが地方に来るため、地方の責任が重くなる。地方分権が必要な理由は、「ニアー・イズ・ベター」(近ければ近いほどいい。補完性原則)という原理があるからである。例えば、日本のことを国連で決めるよりは日本で決めた方がいいということだ。まず地方がやれることがあって、本当に地方ができないことを国がやると考えればよい。
「国」「道州」「市町村」という三層構造
今の制度でいう「国」「県」「市町村」でいえば、市町村がやる政策は生活周りとヒト(教育・福祉・ゴミなど)である。ただし、今の市町村では狭すぎるため人口30万人くらいまで広域的にする。また、今の県も小さすぎるから、日本全国を8つくらいの「道州」に分けると市町村でできない広域的な仕事(インフラ)ができる。さらに、道州でもできないもの(国防、外交、社会保障の公平性など)が「国」の役割となる。
省庁がなくなる日
こうして地方分権が進むと霞ヶ関も大きく変わる。国土交通省は道州の機関になるし、文部科学省は市町村の機関になる。厚生労働省も年金以外の介護や福祉は、ほとんど地方の機関になるだろう。総務省もなくなり、農林水産省も道州の機関になる。経済産業省は経済外交をやる通商部は残るかもしれないが、その他は地方の機関になる。最終的に国に残るのは、財務省、防衛省、法務省、外務省ぐらいだろう。
消費税の目的税化のワナ
消費税のような安定的な税源は地方税になるだろう。いま議論している消費税の社会保障目的税化は、消費税を地方に取られないようにするための財務省の策略という説もある。このように、税金は民主主義という国の作り方の根幹に強く対応しているのだ。
「過去官僚」はダメ
過去官僚とは、昔官僚をやっていた政治家である。官僚だった人は、自分たちが国づくりをしてきたという自負があるから、霞ヶ関がなくなるというのは許せないことだろう。しかし、地方分権・道州制は市場経済と相性がいい。市場経済は、個人個人が市場の主体となるという意味で文献の最たるものだからである。
「三位一体改革」の苦い味
地方の歳入には、総務省が与える「交付税」、所管官庁が出す「補助金」、そして「地方税」の3つがある。交付税は本来は地方税だが、地域格差をなくすための補助金の色合いが濃い。財務省が所得税、法人税、消費税といった国税を取って、大体3分の1が総務省にわたって、それをそのまま地方に配分するというものだ。交付税は何に使ってもよいが、補助金は目的が決まっている。
ドサクサにまぎれて、二割をいただき
小泉純一郎政権での三位一体改革では、交付税が減って、補助金が減って、補助金の8掛け程度の税源移譲が地方に行われた。この2割の削減分を行革を理由に財務省が取ってしまったのだ。特に文科省からの義務教育の補助金が減ったことを問題にした地方も多かった。
交付税削減の策略
三位一体改革において、財務省は交付税を削減する策略を行った。「地域格差をなくすという名目の交付税によって、地方の財政が緩んで自立が阻害されている」というキャンペーンを行ったり、「国の財政再建」というお題目を掲げて交付税を削減させたのだ。しかも、総務省が交付税に依存している地方自治体ほど多くを減らしてしまったため、一部の自治体で非常に評判が悪かった。
知事は皆、セコい
多くの知事は税源を移譲することなく、カネだけくれと言う。しかし、税源移譲をすると何かが必要なときに自分たちで増税をしなければならないから、それは希望しないのだ。そもそも地方税は政府税調で議論される。本来、地方税のことは地方議会で行うべきである。
不相応な歩道
日本は国が決めて地方が行うから、例えば地方で道路を作るとき、国からの補助金をつけるとムダな画一条件がつく。その地域に不相応な歩道ができていたら、それは補助金をもらうために行っているのだ。
「埋蔵金」の哲学
こうしたムダを打破するのが道州制である。道州制で行えば、東京以外のところも大きな単位になる。そうすると税源移譲する意味が出てくるのだ。埋蔵金論争は、大きな政府vs小さな政府という国家観をめぐる論争なのである。
最後に
国、県、市町村を国、道州、市町村に再構成するのが道州制。その原理は「ニアー・イズ・ベター」。道州制になれば中央官庁は小さくなり、地方の裁量が大きくなる。地方の歳入は交付税、補助金、地方税。埋蔵金論争は国のあり方を問う国家観をめぐる論争。
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