doubt

レズリー・ヘイズルトン 疑いは、信仰の本質

「ムハンマドがコーランの啓示を受けた夜、まず疑い、畏怖、恐怖さえも持ったといいます。この経験こそが彼の信仰の基盤となりました」レズリーは語りかける。ここでは、95万ビューを超える Lesley Hazleton のTED講演を訳し、疑いは信仰の本質であることを理解する。

要約

レズリー・ヘイズルトンは、イスラム教預言者ムハンマドの伝記を書いているとき、あることに衝撃を受けました。古い記述によれば、コーランの啓示を受けた夜、彼は初めに疑い、畏怖、恐怖さえも持ったというのです。そしてこの経験こそが彼の信仰の基盤となりました。ヘイズルトンは信仰の土台としての疑いと問いに対する新たな見解を提唱し、あらゆる宗教の原理主義の終結を呼びかけています。

Writer Lesley Hazleton is the author of ‘The First Muslim,’ a new look at the life of Muhammad.

 

1 伝記を書くことは探検の旅

伝記を書くというのは不思議なものです。それは 自分ではない誰かの人生の 領域へ入っていく旅であり 自分が行くなんて夢にも思わなかった場所へ 連れて行ってくれる探検の旅なのです。旅に出てもまだ実感はありません。特に 私のような不可知論者のユダヤ人が 預言者ムハンマドの人生を辿る―なんて場合にはね。

 

2 イスラム教における核心的な神秘の瞬間

例えば5年前のことですが 私は霧のかかったシアトルで朝起きるたび 答えようのない問いにぶつかっていました。あの砂漠の夜 地球の裏側で 歴史の半分も遡るほど昔― あの瞬間に 実際何が起こったのか? つまり 610年のあの夜 メッカのすぐ郊外の山の上で ムハンマドが初めてコーランの啓示を受けたとき 一体 何が起こったのか? イスラム教における核心的な神秘の瞬間です。勿論 この問いかけは 実証的に分析されうるものではありませんが それでも この問いは私の頭から消えませんでした。私みたいな非宗教的な人間が 問うだなんてそれだけでも 完全に厚かましいということは承知の上です (笑) 私は罪を認めます。何故なら 探検というのは物理的にしろ知的にしろ 境界を越えるという罪を犯すことは 避けられないからです。境界の大小に差はありますがね。

 

3 神に遭遇した人間とは希望的なフィクション

さて 神に遭遇した人間というのは イスラム教徒にとってはムハンマドがそうですが 合理主義者からすると事実ではなく 希望的なフィクションなんです。皆さん同様 私も自分が合理主義者だと思っていますので、あの夜に関する最も古い記述を見ると 起きた事よりも 起きなかった事の方に 心を奪われるのです。ムハンマドは 空中を歩くように 山から舞い降りてきた訳ではありません 「ハレルヤ!」「神を祝福せよ!」などと 叫びながら下ってきた訳でもありません。光も喜びも発しませんでした。天使の合唱もなく 天空の音楽も 高揚も恍惚も 取り巻く黄金のオーラもなく 神の使者としての絶対的で運命的な役割を 感じさせるものは ありませんでした。そのようなことが全くなかったので その話が宗教にかこつけた作り話だと 非難することは簡単だったでしょう。まったく反対です。彼は自身で こう証言しています。彼は その時起こったことは 現実である訳がないと初めは思っていました。せいぜい 幻覚だっただろうと 錯覚か 幻聴か あるいは頭がおかしくなったのか 悪魔ジンに襲われて 取り憑かれてしまったのなら最悪だ。ヤツは自分を騙すために現れて 挙句は命までも潰してしまう。実際 彼は自分が悪魔ジンに取り憑かれた― マジュヌーンであると考え まだ生きていると気づくと 自ら一気にけりをつけようとしました。一番高い崖から跳び下り すべての経験に終わりを告げることで 経験したことへの恐怖から逃れようとしたのです。

4 恐怖こそがまっとうな反応だった

男はその夜山を逃れるように駆け下りました。喜びではなく 苛酷で 根源的な恐怖に震えながら。彼には確信のかけらもなくむしろ疑念に圧倒されていました。そしてパニックに陥った方向感覚 慣れ親しんだ全てのものからの切断 人智を超えた 圧倒するような何かへの気づきは 恐ろしい“awe(畏怖)” としか言いようがなかったのです。現在私たちは“awesome(すごい)”という言葉を 最新アプリや人気動画に対して使うので この感覚は理解し難いかもしれません。私たちは 巨大地震などを除けば 本当の畏怖に遭うことはありません。外界を遮断し 身を縮めて 自分が主導権を握っていると信じています。少なくとも そう望んでいます。時に我々の力は及ばず 説明すらつかないという事実から 目を背けるのに必死なのです。ですが合理主義者にしろ神秘主義者にしろ あの夜 ムハンマドが聞いた言葉が 発せられたのは彼の内からあるいは外からだと信じるにせよ 確かなのは彼がそれを経験したということ。そしてその経験において彼の自我や世界観を 打ち砕くような力が働いて 本来 謙虚なこの男を 社会的 経済的正義の急進的提唱者へと変えたということです。恐怖こそがまっとうな反応でした。人間的な反応として他には ありえません。

 

5 疑いは信仰の本質

人間的すぎたため 例えば保守派イスラム神学者たちは ムハンマドが死のうと思ったことは イスラム最古の伝記に記載があろうとも 伏せておくべきだと主張しました。ムハンマドは一瞬たりとも疑わず まして絶望などしなかったというのが神学者の主張です。完璧を求めるが故 彼らは人間の不完全性を受容することを拒みました。ですが 疑いを持つことの一体どこが不完全なのでしょう? 古い記述を読んで気づいたことですが ムハンマドが死なずに済んだのも 私が彼を実在の人物と認められるのも ひとえに彼が疑いを持っていたからなのです。彼が疑っていたということは 考えれば考えるほど理にかなってくるのです。何故なら疑いは信仰の本質だからです。

 

6 疑いを排除すれば残るのは絶対的で核心のない信念

これが衝撃的な考えだと思うなら グレアム・グリーンがかつて言ったように 疑いを「事件の核心」と考えてみてください。疑いを排除すれば残るのは信仰ではなく 絶対的で 核心のない信念です。自分には “Truth(真理)” があると確信するでしょう。大文字の T で表されるような「唯一絶対の真理」ですよ。そして この確信は瞬く間に 教義と正義へと形を変えるのです。自らの正当性を振りかざす― 感情むきだしの思い上がったプライドのことですよ。すなわち 原理主義の傲慢さです。歴史における皮肉としか言いようのないことですが イスラム原理主義者が好んで使う罵り言葉は 十字軍として知られるキリスト教原理主義者が 好んで使う言葉と同じなのです。それは― “infidel(異教徒)”語源はラテン語の「信仰心がない」 二重に皮肉なのは彼らの絶対主義が 実際には信仰とは正反対のものだという点です。実は 彼らこそが異教徒なのです。どの宗教でも原理主義者というのは 答えばかりで問いを持ちません。それは思考を避けるための完璧な手段であり 真の信仰の厳しい要求を逃れる理想的な隠れ方でもあります。これで原理主義者たちは 天使と夜を徹して闘ったヤコブや 40日間 荒野で修行したイエス あるいは 啓示を受けたあの山上の夜だけでなく 預言者として一生を通し コーランを手に 「絶望するな」と自分に言い聞かせ 声高らかに 「我はすべてを知り 我のみが正しい」と 誇示する者を糾弾したムハンマドのように 闘う必要はなくなりました。

 

7 武装過激派はすべてカルトで、他者の血に染まった血盟の友

さらに 数の上では圧倒的でも声なき大衆である私たちは この少数派の過激主義者に公の場を譲ってしまいました。ユダヤ教はヨルダン川西岸地区に 強引に入植する救世主気取りの者たちに利用され キリスト教は同性愛を嫌悪する偽善者と 女性を蔑視する偏屈者たちに。また― イスラム教は自爆テロ犯にその名を用いることを許してきました。キリスト教徒ユダヤ教徒 あるいは― イスラム教徒であるなどと 彼らが主張したところで 武装した過激派は どの宗教でもないという事実を理解せずに来てしまいました。武装過激派はすべてカルトです。他者の血に染まった血盟の友です。

 

8 信仰と狂信を混合してはならない

これは信仰ではありません。狂信です。この二つを混合してはいけません。本当の信仰に安易な答えはないということを知らなければなりません。難しく 扱いにくい相手です。絶え間ない闘いです。わかったつもりの事柄を問い続け 問題や考えに取り組みます。疑いと 手を取り合いながら 疑いと終わりなき対話をし 時には意識的に疑いと対立します。この意識的な対立こそ私が不可知論者でありながら 信念を持つことができる理由なのです。私は信念を持っています。例えば 中東の平和は― そうは行かないという証拠が大量に積み上げられる中でも 実現可能であると信じています。確信はありません。「可能だ」と言い切るつもりはありません。ただ 可能であると信じ この信念を表明するのみです。そうでもしなければこの信念を諦めるという誘惑にかられ 声を上げることを放棄してしまうからです。

 

9 絶望は叶ってしまう

絶望は叶ってしまうからです。「不可能だ」と言うとき 私たちは不可能になるよう仕向けているのです。少なくとも私はそんな生き方を拒みます。実際 ほとんどの人は拒んでいます。無神論者であろうと有神論者であろうと あるいはその中間やそれを越えた立場であろうと 私たちを動かすのは疑いを持ちながらも いえ 疑いを持っているからこそ 絶望のニヒリズムを拒否することです。私たちは未来やお互いの関係を 信じることを表明します。甘い考えだと言われても構いません。極端な理想主義者と呼ばれてもいい。けれど一つだけ確かなことは 私たちは人間だということ。

 

10 人の命を救う者は全人類の命を救う

ムハンマドが信仰を持たず 偏狭な確信による傲慢さを拒みもしなかったら 彼は世界をこうも根本から変えることができたでしょうか。そうは思いません。この5年間 執筆を通じて 彼と接してきましたが 今日 中東その他の地域でムハンマドの名の下に 活動していると主張する原理主義過激派に対し 彼は非常に激しい怒りを覚えるに違いないと思います。彼は 性別によって人口の半分が 弾圧されていることに愕然とするでしょう。派閥間のむごい対立に心を引き裂かれるでしょう。犯罪だけでなく 彼が信じ求めて奮闘した 全てが非常識にねじ曲げられていることを テロリズムだと叫ぶでしょう。彼はコーランの教えを説くでしょう「人の命を奪う者は― 全人類の命を奪う」 「人の命を救う者は全人類の命を救う」 そして彼は 厳しく 厄介な平和構築のプロセスに全力を注ぐでしょう。ありがとうございました(拍手)ありがとうございます(拍手)

最後に

伝記を書くことは探検の旅。神に遭遇した人間とは希望的なフィクション。疑いを排除すれば残るのは信仰ではなく、絶対的で核心のない信念。この確信は瞬く間に教義と正義、すなわち原理主義の傲慢さへと形を変える。原理主義者は答えばかりで問いを持たない。疑いは信仰の本質。信仰と狂信を混合してはならない。意識的な対立を帯びた信念を持とう

和訳してくださった Yuriko Nakamura 氏、レビューしてくださった Emi Kamiya 氏に感謝する(2013年6月)。

ムハンマドの生涯 (「知の再発見」双書)


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