前回は、原油価格が上がったら通貨供給を増やせばいい 個別物価と一般物価についてまとめた。ここでは、目標設定は政府の責任、手段は日銀の責任 透明性を担保するインフレ目標について解説する。
物価安定目標の必要性
金融政策では、物価安定目標(inflation-control-targeting)という物価安定の数値目標を掲げて、それを達成できたかどうかを容易に判定できるようにしているのが世界の常識である。物価安定目標のメリットは、目標とする物価上昇率を明示しているので、誰が総裁になっても市場は日銀の次の一手がわかることである。
目標の設定は政府の責任
物価安定目標の設定は政府の責任である。例えば、2年以内のデフレ脱却などの目標を政府が設定し、その上で中央銀行はそれを達成する責任を負う。目標達成のためには出身母体は関係ない。マクロ経済の理解とコミュニケーション能力が求められるだけである。
日銀の独立性とは、手段の独立性のこと
中央銀行は手段の独立性は確保されているが、目標は政府と協調して決めるのが世界の常識である。手段の独立性とは、目標の独立性はないが、その目標のもとでどのような手段をどのようなタイミングで行うかについては、中央銀行が責任を持つというものである。手段は自由に決めてよいが、目標を達成できなかったらペナルティを科す、これが日銀の独立性である。
目標を公表する – 内部から見た日銀との綱引き
決めた目標を対外的に公表することも重要である。そうしなければ、ペナルティを科すことができないからである。2003年に福井総裁を選ぶときにはデフレ脱却を約束させたのだが、口約束だったため、結果的に約束を破られてしまった。
こうした問題の対策例として、国会に小委員会を設置し、総裁候補者に参考人という形でヒアリングをすれば、選考プロセスはオープンになり、政府ではなく与野党双方から候補者リストを提出できる。その場で金融政策についての質問を多く繰り返すことで、新総裁のコミットメントを対外的にも明らかにすることができる。
また、政府と日銀の間でインフレ目標の協定(アコード)を結ぶというのも有効である。これはイングランド銀行のやり方に似ている。
物価安定目標
物価安定目標とは、NPMの考えを中央銀行に導入し、理論として構築されたものである。NPM(New Public Management)とは、民間企業の経営手法をできる限り公共部門に取り入れようとする取り組みで、1980年代半ばにイギリスやニュージーランドなどで始まった。このNPMの基本となる考え方が、PDCAサイクルである。具体的には、行政が国民や住民に対して「○○をやります」と目標を示し、実行することを約束(コミットメント)する。そして、その成果にもとづいて評価される。
物価安定目標(インフレ目標)は、日本とアメリカを除く先進国で採用されている標準的な金融政策の枠組みである。ニュージーランド、カナダ、イギリス、スウェーデン、フィンランド、オーストラリア、スペイン、韓国、チェコ、ハンガリーなどのほか、欧州中央銀行(ユーロ加盟国)もインフレ目標が採用されている。
FRB(アメリカ連邦準備制度理事会)は、「物価の安定」に加えて「失業率を低くする」という役割もある。ただし、この2つはトレードオフ(二律背反)の関係にあるので、インフレ目標のみを掲げることができないという事情がある。
インフレ目標に対する批判
インフレ目標に対する批判は、大きく分けると2つになる。単純に効果がないとする(無効論)と、副作用があるとする(弊害論)である。
具体的な無効論は、①デフレは中国などから安い製品が入ってきたから、②効果の波及メカニズムがない、③実績・実例がないの3つに分けられる。
具体的な弊害論は、④インフレはコントロールできずハイパーインフレになる、⑤名目金利が上昇し、金融機関や日銀のバランスシートを毀損させる、⑥財政規律を弱める、⑦構造改革が阻害されるの4つに分けられる。
以降にこれらについて回答していく。
①中国デフレ論のウソ
中国からの輸入の対GDP比率は、すべてのOECD諸国で上昇しているが、デフレになっているのは日本だけである。さらに、OECD諸国で中国からの輸入の対GDP比率が日本より大きいのは、韓国、ニュージーランド、チェコ、ハンガリーだが、いずれの国もデフレではない。そして、これらの国ではいずれもインフレ目標政策を採用している。
しばしば、香港がデフレだという反論がある。しかし、香港はカレンシーボードという為替相場制度をとっており、自前の金融政策を放棄しているからである。
②シニョレッジ効果
効果の波及メカニズムがないという批判に対しては、ワルラスの法則とシニョレッジ効果によって説明できる。ワルラスの法則とは、世の中全体で見ると、貨幣部門と非貨幣部門(消費材、資産、労働)は均衡しているが、貨幣部門が超過供給になれば、非貨幣部門はその分だけ超過需要になるというものである。つまり、世の中のモノが増えればその価格は下がり、世の中のマネーが増えればその価値は下がる(モノの価格が上がる)というものである。
シニョレッジ効果(通貨発行益)とは、通貨を発行することによって得る差益のことである。政府・中央銀行(講義の政府)が通貨を発行すれば、ほぼその残高に等しい通貨発行益が生じて有効需要を創出するので、モノの価格が上がるのである(変動相場制では財政政策は効果なし 物価の安定が目的の金融政策参照)。
③「実績・実例がない」のウソ
インフレ目標政策の実績・実例はある。スウェーデン、ニュージーランド、カナダなどは、この政策を導入した結果、深刻なデフレに陥らなかった。
④目標の上限が決まっている
この10年間、インフレ目標政策によってハイパーインフレになった国は1つも存在していない。ハイパーインフレとは、標準的な定義では年率1万3000%以上のインフレのことであり、国が壊滅するような状況で現れる極端な現象である。
実際にインフレ目標以上の状況が予想された場合には、中央銀行が金融引き締めを行えばいい。また、物価の先物といえる物価連動債から得られる「予想インフレ」情報を活用すれば、先を読んだ金融政策を行うことができる。
⑤デフレ下でフィッシャー効果は実現しない
フィッシャー効果(名目金利=実質金利+予想インフレ率)は、完全雇用を前提としており、今のデフレ状況ではただちに実現しない。そのため、名目金利が上がり、金融機関や日銀のバランスシートが毀損されることはない。
現金需要が極めて旺盛な流動性の罠の状態では、インフレ予想が生じても現金の一部が債券購入資金に回り、債券価格を下支えして金利はなかなか上がらない。つまり、物価上昇率の増加ほどには名目金利は上昇せず、実質金利の低下につながる。
これは、景気回復期と後退期でフィッシャー効果が非対称になっているという実証研究からも裏付けられる。さらに、1930年代の大恐慌においても、アメリカや日本で名目金利の上昇は見られなかった。
⑥インフレ・バイアスを抑制
財政規律を保つためには、財政赤字や債務残高を制限する予算制度のルールを作成すればよい。また、政府はインフレ・バイアス(高いインフレ率を望むこと)を持つが、インフレ目標政策において年率1〜3%程度に設定することで、そのバイアスを抑制することができる。
⑦構造改革と並行してやればいい
インフレ目標政策と構造改革(不良債権処理、特殊法人の民営化、規制改革など)は同時に行うことができる。デフレ下では、名目金利はゼロでも実質金利は高いため、それをすべての主体が等しく負担している。インフレ目標政策によってマイルドなインフレにすることで、停滞産業から成長産業への資源移転を促進することができる。
インフレ目標がないために起こった利上げ騒動
2007年1月の日銀の利上げ騒動は、インフレ目標がないために起こった。日銀幹部から利上げを示唆する発言が行われる一方、政府や自民党幹部から牽制とも受け取れる発言が相次ぎ、それをマスコミが増幅。結局利上げは見送られたものの、マーケットは日銀当局者の意向によって大きく翻弄されたのである。
日銀の独立性は脅かされたのか?
この利上げ騒動の中で行われた政府や自民党幹部の発言は、決して日銀の独立性を脅かすものではない。先に述べたように、中央銀行の独立性とは、具体的な利上げ・利下げの時期・幅などを決めて実行する「手段」の独立性である。政府や自民党幹部の発言は「政府と日銀は目標を共有すべきであり、その範囲で日銀は適切に判断するはずだ」というものであった。つまり、日銀には「目標」の独立性はないが、「手段」の独立性はあると述べたにすぎない。
この騒動を海外から見ると
海外から見ると、この騒動は日銀の説明力不足や政策目標の曖昧さが原因という声が多くあった。例えば、2007年1月19日の「フィナンシャル・タイムズ」紙の社説は「…日銀の判断は正しかった。しかし日銀は市場には利上げを期待させていただけに、金利据え置きを求めた政治圧力に屈したとの印象を与えてしまい、中央銀行としての独立性を損ねてしまった。…日本政府は、ぜひとも明確なインフレ目標を設定するべきだ」と結論している。
日銀の「地ならし」
日銀の「地ならし」とは、マスコミや日銀ウォッチャーに対する情報提供のことである。この騒動が起きた原因は、こうした日銀による地ならしを明確に否定できないこと、政府と日銀に景気認識の違いがあること、共有すべき目標がないことの3つが挙げられる。
目標が共有されてないから、マーケットが過敏に反応する
政府と日銀に景気認識の違いとは、自民党の中川幹事長(当時)のGDPギャップ(需給ギャップ)についての発言と福井日銀総裁(当時)の発言から見受けられる。前者は「政府は供給超過(マイナス)、日銀は需要超過(プラス)と判断が異なっている」としたが、後者は「政府と日銀のGDPギャップは計算方法が違って幅を見る必要があるが、方向感として違和感がない」とし、現状認識の共有が曖昧であった。
GDPギャップ(需給ギャップ)とは、経済の実際の需要と供給力の差を示す数値のことである。商品やサービスの総供給が総需要を上回れば需給ギャップが大きくなり、総需要に対して総供給が追いつかないと需給ギャップが小さくなる。需給ギャップは実際のGDPから潜在GDPを差し引いて算出する。内閣府は経済の巡航速度といわれる潜在成長率を0.8%としている。実際の成長率がこれを上回ると物価上昇の圧力が加わる。
具体的には、GDPギャップが大きく(供給過剰)になると売れ残りが生じ、通貨量が減り、デフレに陥りやすい。また、失業率が高く、設備が過剰となり、不況になる。反対に、GDPギャップが小さく(需給過剰)になると品不足になり、通貨量が増え、インフレになりやすい。また、人手不足で設備投資が活発になり、好況になる(マネー辞典 GDPギャップより)。
また、政府と日銀の間で共通の政策目標がなかった。日銀は「消費者物価(コアCPI)上昇率で0〜2%程度」を物価安定の理解としていたが、これは日銀が勝手にあげた数字である。
金融政策は、目標がはっきりしていればかなり透明性を持つことができる。GDPギャップなどの現状認識を政府と日銀が共有した上で、インフレ目標など金融政策の目標が明確になれば、政策金利の推計もできるようになるからである。
つまり、当時の日銀と政府には現状認識と目標の共有がなされていなかったため、誰がどう発言したかということで市場が過敏に反応してしまったのである。
最後に
需給ギャップ10兆円に縮小=2期連続改善-1~3月期と、アベノミクスの成果が出てきている。目標の公言と共有には、責任と覚悟が問われる。しかし、それによってやるべきことが明らかになり、成果を上げることで信用を得ることができる。政府と日銀の役割分担。
次回は、株価は金融緩和で上がり、金融引き締めで下がる 金融政策と株価の関係についてまとめる。
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