「IQテストでどの世代も前の世代より高い数値を示すというフリン効果は本当でしょうか」フリンは語りかける。ここでは、170万ビューを超える James Flynn のTED講演を訳し、科学技術の発展とそれと必ずしも比例しない人間の知性について理解する。
要約
「フリン効果」と呼ばれるものがあります。IQテストで、どの世代も前の世代より高い数値を示すというものです。私たちは本当に賢くなっているのでしょうか?それとも単なる考え方の違いでしょうか?道徳哲学者のジェームズ・フリンは、20世紀の知に関する歴史を通じて物事がめまぐるしく展開する中、考え方の変化が驚くべき(そして良いこととは限らない)結果をもたらしたという見解を表します。
James Flynn challenges our fundamental assumptions about intelligence.
1 20世紀の間に私たちの知性は劇的に変化した
まず 20世紀における 認知に関する歴史を見てみましょう。なぜなら 20世紀の間に 私たちの知性は劇的に変化したからです。ご存じの通り1900年の車と今の車は違います。道が良くなり テクノロジーが発達したためです。同様に我々の知性も変化しました。人類は 具体的な世界と向き合い それを分析するにあたり 自らの利益に主眼を置く生き物から 非常に複雑な世界に目を向ける生き物へと変化してきました。これによって我々は 新たな思考習慣を作り出すことを余儀なくされました。思考習慣とは例えば 具体的な世界に分類をあてがうことや 抽象的な概念を導入し そこに論理的一貫性を持たせること、あるいは仮定を真剣に捉えることつまり― 現実ではなく可能性について 考えを巡らせるということです。
2 時代とともにIQが著しく上昇していた
私がこの劇的な変化に気づいたのは 時代とともにIQが著しく上昇していたことが要因です。極めて著しいものです。IQテストで正解がちょっと増える程度ではありません。正解数はIQテストが開発されて以来 世代を追うごとに はるかに多くなってきています。実際百年前の人々の知能指数を 現代の基準で判断すると 平均値は70です。もし 現代人を彼らの基準で測ると 平均値は130です。これは様々な疑問を提起します。私たちの近しい先祖たちは 知的障害の瀬戸際にいたのでしょうか? というのも 通常70という数値は知的障害に当たるからです。それとも 私たちが皆天才なのでしょうか? 130という数値は天才の目安です。
3 兵士たちの視力や手の安定性が向上したのではない
ここで第三の可能性を論じてみましょう。先の二つよりずっと明快で このことを大局的に捉える試みです。ある日火星人が地球にやってきて ある滅びた文明を発見したとしましょう。この火星人は考古学者で 人類が射撃訓練で残した スコアを見つけました。まず1865年のものを見ると 的の真ん中に当たっているのは 1分間に1発だけでした。次に1898年を見ると 1分間に約5発当てています。そして1918年には100発 命中しています。まずもって考古学者は困惑し こう言うでしょう「見ろ このテストは 人類が手をいかに安定させ 視覚がいかに鋭く 武器をうまく扱えているかを測っている。どうしてこれほど大幅に 上達することができたのだろう」 我々には わかりきったことですね。もしその火星人が戦場を見れば 南北戦争の時代には マスケット銃しかなかったことや 米西戦争のときには 連発ライフル銃があったことそして― 第一次世界大戦の頃になると 機関銃を持っていたことがわかったでしょう。言い換えれば平均的な兵士が扱う― 装備の問題です。兵士たちの視力や手の安定性が 向上したのではありません。
4 アレクサンドル・ルリヤは人々を観察した
では ここ百年ほどの間に発達した 知的能力について想像してみましょう。ここで我々を助けてくれるのは アレクサンドル・ルリヤです。ルリヤは人々を観察しました。世の中に科学が台頭してくる少し前の時代のことです。そして ルリヤは人々が 具体的な世界の分類に対して抵抗を示すことに気づきました。人々は物事を小さく分割して使うことを好みました。また 仮定を基に 推論することや可能性について熟考することを 拒むことがわかりました。さらに 彼らが抽象的な事象を論じたり それを論理的に考えたりするのが得意でないこともわかりました。
5 「カラスと魚の共通点は何だい?」
ルリヤのインタビューをいくつか紹介しましょう。相手はロシアの農村部の権力者です 1900年当時の人々は4年間しか 学校教育を受けていません。ルリヤはこう尋ねました 「カラスと魚の共通点は何だい?」 答えはこうです「何もない。魚は食えるがカラスは食えないだろう。カラスは魚をついばむが 魚はカラスに何も出来やしない」 ルリヤが「でも どっちも動物じゃない?」と聞くと 答えは「もちろん違う」 「片方は魚で もう片方は鳥だ」 彼の頭にあるのは要するに 自分とその物体とが具体的にどう関わるかです。
6 「ドイツにはラクダがいない。ハンブルクはドイツの都市だ。ではハンブルクにラクダはいるかい?」
ルリヤは相手を変えて こう聞いてみました 「ドイツにはラクダがいない。ハンブルクはドイツの都市だ。では ハンブルクにラクダはいるかい?」 答えはこうです 「まぁ大きな街ならラクダくらいいるだろうよ」 「私の言わんとするところは?」とルリヤが聞くと こう答えました「そこは小さな村で ラクダには狭いのかもな」 つまり このことを彼は 具体的な問題としてしか考えられず 村にラクダがいることに慣れている彼には 仮定を使いドイツにラクダはいないものとして 問題に取り組むことができなかったのです。
7 日常的な体験を軸に問題を捉えている
3つ目のインタビューでは 北極について尋ねました 「北極には 常に雪がある。常に雪がある場所にいるクマは白い。では 北極のクマは何色か?」 答えはこうでした「そういうことは 証言で決まるのさ。もし 北極から来た賢い人が クマが白いと言うならば 信じるかもしれないが 俺が今までに見たクマはどれも茶色だったよ」 おわかりでしょう。この人物は具体的な世界という― 枠組みを越えることを拒み 日常的な体験を軸に問題を捉えているのです 「クマが何色か」という問題は 重要ですが それは狩猟をするからなのです。深入りする気がないのです。ルリヤに こう尋ねた人がいます 「現実にない問題をどうやって解けるんだい? 問題は非現実的なものばかりで 手のつけようがないじゃないか」
8 分類、抽象概念、仮定の受け止めが現実世界にもたらす影響
ここまでにお話してきた3点― 分類すること 論理を使って抽象概念を扱うこと 仮定を真剣に受け止めること。これらが現実世界にもたらす影響は どれ程のものでしょう いくつか実例を挙げましょう。
9 4年から12年に延びた現代の教育の大部分は科学的
まず 現代人はほとんど全員高校を卒業します。4年だった教育は8年になり 12年間の正規教育になりました。さらに アメリカ人の52%は 何らかの高等教育を経験します。単に教育の量が増えただけではありません。その教育の大部分は科学的であり 科学に取り組むために分類は欠かせません。科学に取り組むためには仮説の提示も必須ですし 論理の一貫性もなくてはなりません。小学校ですら内容は変わってきています。1910年 オハイオ州で行われた 14歳向けのテストを見ると問題は全て 社会的に価値のある 具体的な情報に関するものでした。例えば 当時の44か45州の 州都の名前を問うというものです。同じオハイオ州の 1990年のテストを見てみると 問題は全て抽象的なもので 例えば 州で最大の都市が州都になりにくい理由を問うものです。州議会の実権は地方にあり 彼らは大都市を嫌いますから 州都は大都市よりも地方都市に 置かれるのだということを 考えさせられるわけです。ニューヨークよりもオールバニーに フィラデルフィアよりもハリスバーグに という具合です。教育の趣旨が変わったのです。今日の教育が目指しているのは仮定を真剣に受け止め 抽象概念を使いそれらを論理的につなぐ能力です。
10 アメリカ人の35%が知的能力を要する職に就いている
雇用はどうでしょう。1900年にはアメリカ人の3%が 知的能力を要する職に就いていました。たったの3%で弁護士や医者教員がまかなえました。今日 アメリカ人の35%が 知的能力を要する職に就いています。弁護、医者、科学者、講師といった 専門職ばかりでなく 技術者や プログラマーのような 非常に多くの準専門職が 含まれます。今や知的能力はあらゆる職種で需要があります。現代社会で雇用の条件を満たすには 知的な意味で大いに柔軟でなければなりません。これは単に知的な職業に従事する人の 数が増えただけではありません。職業の質が向上したのです。1900年の医者は 奥の手を2つ3つ持っていれば務まりました。それに比べ 現代は開業医にせよ 専門医にせよ 科学的な訓練を何年も受けています。1900年の銀行家は 勘定が得意で 地元住民の中からローンの返済を怠らない人物を 見分けられればやっていけました。世界経済を混迷に陥れたかの為替業者は 道徳的にはともかくとして 非常に頭の切れる連中でした。1900年の銀行家よりはるかに優秀でした。住宅市場予測に注目する必要がありましたし 負債をまとめるため複数の債務担保証券を使って CDOスクエアードという術を編み出し 負債を うま味のある資産に見せかける必要もありました。最上級の格付けを得るための根拠作りも求められました。多くの場合 モノを言ったのは格付け機関への賄賂でしたがね。さらに 当然ながら 実際には極めて不安定ないわゆる「資産」に 人々がお金をつぎ込むように 仕向けなければなりませんでした。あるいは農家にしても 現在の農業経営者は 1900年の農家と全然違います。つまり知的能力を要する職業が 単に広がっただけではないというわけです。仕事の質も上がったのです。弁護士や医者の類と同様に 私たちの仕事も知的能力を要するようになってきました。
11 「明日の朝、目が覚めて黒人になってたらどう思う?」
しかし私がお話しているのは教育と雇用のことです。私たちが20世紀を通じて発達させてきた 思考習慣の一部は 意外な分野にも影響しています。私は道徳哲学が専門です。心理学は趣味程度で 興味の中心は道徳の議論です。さて 20世紀以降 アメリカのような先進国では 道徳上の議論が活発になりました。人々が仮定を真剣に捉えられるようになったためです。「普遍的」という概念を受け入れ 論理的な関係性を求めるようにもなりました。1955年 私は大学から実家へ戻りました。ちょうどキング牧師の時代で 沢山の人が実家に戻り 両親や祖父母と議論するようになっていた頃です。父は1885年生まれで やや民族差別の傾向がありました。アイルランド人でイングランド人は大嫌い。他は特に興味なしという人でした (笑) しかし 黒人が劣っているという意識を持っているのは明らかでした。ある時 両親と祖父母に尋ねました。「明日の朝 目が覚めて黒人になってたら どう思う?」 「バカも休み休み言え」と言われました。朝起きたら黒人になってた― (笑) そんな人がいたか?
12 仮定を抜きにして道徳的な議論を始めるのは非常に困難
つまり 彼らは受け継いで来た具体的な規範や考え方に 凝り固まっていたのです。彼らは仮定を真剣に捉えようとしませんでした。仮定を抜きにして 道徳的な議論を始めるのは非常に困難です。議論の始まりはこうでしょう。イランにいると思ってください。そして 何の罪もない親戚が 爆撃に巻き込まれていると 想像してください。どう感じますか? もし 旧世代の人が「うちの政府は― 我々国民を保護している。彼らの保護はあっちの政府の責任だ」と言えば 彼らは仮定を真剣に捉える気がないということです。別の例はイスラム系の父親です。娘がレイプされたら 自分の娘を殺さざるを得ないと感じます。自分の慣習や道徳観を 代々受け継いで来た変わらぬものと考え 論理では動かせません。昔の道徳観が受け継がれているのです。現代なら こう問いかけるでしょう。あなたが気絶させられて 男にレイプされたとしたら 殺されても仕方ないですか? 父親はこう言うでしょう「そんなことは― コーランにも書かれていないし原理に当てはまらない」 現代人は原理に普遍性を持たせ 原理を抽象概念として述べそこに論理を用います。例えば「人は罪を犯さない限り― 苦しむべきではない」という原理を持つならば 黒人を拒むためには 例外が必要になってきますね 「肌が黒いというだけで苦しむなんておかしい」と 言わざるを得ません。黒人であることが何らかの汚点だと断定するなら 我々はそれを立証できるはずでしょう。黒人が皆 劣っているなんておかしな話です。アウグスティヌスも黒人トーマス・ソウェルも黒人ですからね 道徳的な議論はこうして始まるのです。なぜなら 道徳的原理は具体的な存在ではなく 普遍的なものであり論理によって― 一貫性を与えられるものだと捉えているからです。
13 IQテストでは特定の分野が大きく成長している
さて 何故 IQテストからこんな話になったのでしょう それがきっかけで知の歴史をたどることになったのです。IQテストを見ると 特定の分野が大きく成長しているのがわかります。ウェクスラー知能テストには類似に関するものがあり それは分類の能力を測るものです。私たちはこの分野で 大幅な伸びを見せています。IQテストには他に 抽象概念に論理を用いる能力を測る部分があります。レーヴン漸進的マトリックス検査を受けた人もいるでしょう。類推の能力を測るものです。1900年の時点で 人々は単純な類推ができました。例えば「ネコはヤマネコに似ているが イヌは何に似ている?」 「オオカミ」という具合です。1960年までに人々はレーヴンの検査で より高度なレベルに取り組めるようになりました 「2つの四角形に三角形が続く時― 2つの円には何が続く?」と問えば 彼らは「半円」と答えられました。三角形が四角形の半分であることから 円の半分である半円を導き出したのです。2010年ともなると 「2つの円に半円が続く時― 2つの16には何が続く?」と問えば 大卒者は「8」と答えます。16の半分は8だからです。つまり 彼らは具体的な世界から離れ 質問に記号などが登場しようとも それに惑わされたりしないということです。
14 歴史や他国について無知では政治はできない
ここで 非常に残念なことを申し上げねばなりません。私たちは全領域で進歩したわけではありません。高度になった現代社会に対処しようと 我々が好んで用いる方法に 政治的手段があります。悲しいかな 我々には道義が備わっています。分類もでき抽象概念に論理を使えます。しかし 歴史や他国について無知では 政治はできません。ご承知の通りアメリカの若者は 歴史や文学を読まなくなり 異国の情報にも目を通しません。歴史に興味がなく 今という泡沫の中に生きています。朝鮮戦争とベトナム戦争の区別がつかず 第二次世界大戦でアメリカがどの国と同盟を結んでいたか知りません。もしアメリカ国民全員が 西洋の軍隊がアフガニスタンへ行き政治的な介入をするのは これで5回目であるということや過去4回で― 具体的に何が起きたか少しでも知っていたら どれほどアメリカは変わるでしょう(笑) かろうじて退却し 意味がなかったということをです。あるいはアメリカが最近6つの戦争の内4つで 嘘をついたことをアメリカ国民の多くが知ったら 事態はどれほど変わるでしょう。スペインは戦艦メインを沈めてはいないし ルシタニアは ただの客船ではなく 武器弾薬を積んでいました。北ベトナム海軍は第7艦隊を攻撃していないし フセインはアルカイダを嫌っていて 関わりもありませんでした。フセインが見せしめにアルカイダを殺害しても アメリカ政府は 二者が戦友であると説き国民の45%が信じました。
15 「大佐の奥方も卑しい女も、ひと皮むけば皆同じ」
さて 最後ぐらいは悲観的でない話をしましょう。20世紀という時代は莫大な知力を蓄えることが 一般の人々にも可能だということを示しました。上流階級の人々は 庶民には無理だと思い込んでいました。庶民が上流階級と同じ思考や知的能力を持つなど あり得ないことだと思っていたのです。かつて カーゾン卿は 北海で水浴びする人々を見て言いました 「身分の低い者も肌が白いのだと。なぜ誰も教えてくれなかった?」 よほど驚いたのでしょうね ラドヤード・キップリングは半分 正しかったのです。彼の言葉です「大佐の奥方も 卑しい女も ひと皮むけば皆同じ」(拍手)
最後に
IQテストでは分類や類推、そして抽象概念に論理を用いる能力の結果が良くなっている。歴史や他国について無知では政治はできない。大佐の奥方も卑しい女も、ひと皮むけば皆同じ。
和訳してくださったShohei Tanaka 氏、レビューしてくださった Emi Kamiya 氏に感謝する(2013年3月)。