「”scientist”という言葉が初めて使われたのはわずか179年前です。哲学朝食会がなければ科学者、専門家は生まれなかったでしょう」ローラは語りかける。ここでは、50万ビューを超える Laura Snyder のTED講演を訳し、4人の「自然哲学者」がもたらした4つの大きな改革について理解する。
要約
1812年、ケンブリッジ大学の4人の男性が朝食会に集まりました。この熱気に包まれた食事会は、後に新たな科学革命につながります。「科学者」という呼称を作るまで「自然哲学者」と呼ばれていた彼らが、この革命を通して科学研究に4つの原則を導入したのです。歴史家で哲学者のローラ・スナイダーが語るのは、彼ら4人の魅力的な逸話です。
Laura Snyder weaves tales of Victorian-era scientists that have been described as “fit for Masterpiece Theater.
1 少しの間 皆さんを19世紀にお連れしましょう
少しの間 皆さんを19世紀にお連れしましょう。日付は1833年6月24日です。英国科学振興協会の3回目の会議が ケンブリッジ大学で開かれているところです。会議1日目の夜 ― その後の科学を変える ― 議論が始まろうとしていました。
2 君達は『自然哲学者』という呼び名を返上すべきだ
立ちあがったのは白髪の老人です。会員達はその男性が詩人の S・T・コールリッジだと気づいて驚愕します。彼はそれまで何年も自宅から出たことはありません。彼の発言を聞いてさらに驚愕します。「君達は『自然哲学者』という呼び名を返上すべきだ」コールリッジの考えでは自分のような真の哲学者は アームチェアに座って宇宙について考えるけれど 振興協会員のように化石の産地をうろついたり 手を汚して電堆で実験などしないというのです。
3 ”scientist”という言葉が初めて使われたのはわずか179年前
次第に聴衆の感情は高ぶり不満を述べはじめました。ウィリアム・ヒューエルという若いケンブリッジの学者が 立ちあがって聴衆をなだめ 振興協会員にふさわしい名称は 確かに存在していないと丁寧に述べました。「『哲学者』という呼び方が幅広く高尚過ぎると言うなら ― “artist”(芸術家)という呼び名にならって “scientist”(科学者)という言葉を作ってはどうでしょう」 この時初めて公の場で”scientist”という言葉が使われたのです。わずか179年前のことです。
4 会議以降、才能あるアマチュアは科学者になった
私は この議論について大学院生の時に知り 心底驚きました なぜ”scientist”という ― 言葉が1833年まで存在しなかったのか? それまではどう呼ばれていたのか? 新たな名前がその時 必要になったのは どのような変化が原因か? この会議以前は才能あるアマチュアが 自然界を研究していました。チャールズ・ダーウィンのように 地方の聖職者や地主をしながら 昆虫や化石を収集したり、ランズダウン侯爵の司書で酸素を発見した ― ジョゼフ・プリーストリーのように 貴族の助手だったのです。この会議以降 彼らは科学者になりました。つまり科学特有の方法と目的学会 予算をもった ― 専門家になったのです。
5 4人の人物が、4つの大きな変革を実現した
この革命の大きな源となったのが 1812年にケンブリッジ大学で出会った4人の人物 ― C・バベッジ、J・ハーシェル、R・ジョーンズ、W・ヒューエルです。聡明かつ野心的で 数々の優れた業績を挙げました。たぶん皆さんもご存じのチャールズ・バベッジは 初の機械式計算機や 現在のコンピュータの原型を発明しました。ジョン・ハーシェルは南半球の星を記録し 余暇を利用して写真の開発にも一役買いました。私達もFacebookやTwitterの時間を減らせば 同じ位 創造性豊かになれるかも知れません。リチャード・ジョーンズは大経済学者となり 後にマルクスに影響を与えました。ヒューエルは”scientist”以外に 陽極 陰極 イオンといった言葉を造っただけでなく 地球規模の潮汐に関する ― 国際的研究を率いました。1812-13年の冬 ケンブリッジで この4人が集まって「哲学朝食会」を開きました。話題は科学について ― そして新たな科学革命の必要性についてです。彼らは17世紀の科学革命以降 ― 科学が停滞していると感じていました。4人が起こすと誓った新たな革命が 必要な時期でした。彼らのすごいところは 大学生のような 壮大な夢を抱いただけでなく 夢を遥かに超えることを 実現したことです。これからお話しするのは彼らが実現した4つの大きな変革です。
6 『証拠に基づく帰納的方法』
『証拠に基づく帰納的方法』200年ほど前には フランシス・ベーコンその後にはニュートンが 科学の帰納的方法を提案していました。帰納的方法とは観察と実験から 自然に関する一般法則つまり自然律を導きます。これは新たな証拠が得られれば 修正あるいは否定されます。ところが1809年にデビッド・リカードが 経済学においては演繹的方法を 使うべきと主張しました。そして影響力のあるオックスフォードの学者達が 始めた主張が問題となります。「演繹法が経済学で機能するなら ― 自然科学にも応用すべきだ」 「哲学朝食会」の面々はこれに反発しました。彼らは科学の全分野で帰納法を用いることを 本や論文を通じて説き ― 自然哲学者 大学生一般大衆に 広く読まれました。ハーシェルの本は ダーウィンにとって重要な転機となりました。彼は後に こう言っています「あれほど影響を受けたものは 一生を通じて他に見当たらない。彼の本を読んで私も自然科学の知識を 蓄積することに貢献したいと感じたのだから」 その本は ダーウィンとその仲間たちの 科学的な手法を確立したのです。
7 『公益のための科学』
『公益のための科学』かつて科学知識は王や女王のため ― あるいは個人の利益のために 使われるべきとされていました。例えば船長は 船を安全に着岸させるために潮汐の知識が必要でしたが 港湾管理人は その知識を集めて 船長に売っていたのです。哲学朝食会は協力して これを変えました。ヒューエルの世界的潮汐調査により 公的な潮汐表と潮汐地図が完成し 港湾管理人だけが持っていた知識を 全ての船長が 自由に得られるようになりました。ハーシェルも南アフリカ沿岸で 潮汐観測を行いました。激しい高波で埠頭から落ちてしまったと ヒューエルにこぼしたそうです。
4人はあらゆる面で助け合いました。英国政府に働きかけバベッジが考案した ― 機械を作る資金を得ようとしました。彼の機械は社会にとって 極めて有用だと考えたからです。電卓が開発される前は 銀行家や保険代理業者船長や技師といった ― 専門家が必要な数値を知るには 数字で埋めつくされた ― 早見表を調べる必要がありました。このような早見表は決まった手順で 何度も計算を行うパートの労働者 ― 「コンピュータ」達が作っていました。数値の計算は極めて難しいものでした。この航海暦には 毎月の月の変化が1年分載っています。1か月分で1,365回の計算が必要で 誤りが多く見られます。バベッジの階差機関はこのような表なら常に正しく 計算できるように設計された初の機械式計算機です。ロンドン科学博物館ではバベッジの設計図を元に この20年で2種類の機械を制作しました。1台は今 カリフォルニアのコンピュータ歴史博物館にあり ― 実際に正確な計算ができます。後に構想された解析機関は 初めての機械式の現代的な意味でのコンピュータで 独立したメモリと中央演算装置を備えていました。繰り返しや条件分岐 ― 並行処理ができ パンチ・カードを使ったプログラムが可能でした。バベッジがジャガード織機から得たアイデアです。残念ながら 当時バベッジの機械は制作されませんでした。そんな機械が社会の役に立つはずがないと 考える人がほとんどだったのです。
8 『新しい科学団体』
『新しい科学団体』ベーコンの時代に設立された王立協会は イングランドのみならず世界的にもトップレベルの 科学学会でした。19世紀には会員制クラブ化していて 好古家や学者や貴族が主たるメンバーでした。哲学朝食会の人々は 英国科学振興協会を含む新たな多くの団体の 結成を支援しました。新しい団体では会員は現役の研究者で 研究結果の公表が必要とされました。論文発表後に質疑の時間を設ける ― 伝統も復活しました。王立協会では 「紳士的でない」としてやめていた慣習です。また これらの団体は初めて科学を女性に開放しました。英国科学振興協会では会員が自分の 妻 娘 姉妹を会合に同伴するよう奨励されました。当初 女性は公開講座やイベントにだけ 出席するものと考えられていましたが 次第に科学の授業にも姿を見せるようになりました。後に科学振興協会は 国レベルの科学機関としては世界で初めて 女性を会員として受け入れました。
9 『外部からの資金援助』
『外部からの資金援助』19世紀までは 実験器具や材料は自然哲学者が 自前で用意するものでした。時々 賞金が出ることはありました 18世紀に「経度問題」を解決したジョン・ハリソンに 与えられた賞金はその一例です。ただ成果があがるまで賞金は出ませんでした。哲学朝食会の助言により 科学振興協会は会合で集まった余剰の資金を 天文学 潮汐調査 化石魚 ― 船の建造など様々な分野の研究に対する ― 助成金として使いました。これにより資金の乏しい人が 研究できるようになったばかりでなく 既存の問題に取り組むだけでない ― 型にはまらない発想を促したのです。その後 王立協会や 他の国の科学団体もその例にならいました。現在の科学の世界では 幸いにもこれが主流になっています。
10 科学者が専門家集団になると、次第にその他の人々との間に壁ができた
哲学朝食会は 現代の科学者を生むきっかけとなりました。それが彼らの物語の成果の部分です。その反面 ― 自分達が起こした革命の 結果の一部は彼らには予見できませんでした。科学と文化の他の分野が 断絶した現在の状況を見たら彼らはがっかりすることでしょう。驚くべきことに アメリカでは基礎的な科学知識をもっているのは 成人のわずか28%に過ぎません。この結果は ごく簡単な質問を通して得られました。「人間と恐竜が一緒に住んでいた時期はあるか?」「地球上の何割が水におおわれているか?」科学者が専門家集団になると 次第に その他の人々との間に壁ができました。これは哲学朝食会の面々も予期しなかった ― 革命の副作用です。
11 「科学は科学者だけのものではない」
ダーウィンは言いました。「一般向けの論文も元の論文と同様に 科学の進歩にとって重要である」 実際 『種の起源』は一般向けに書かれ 出版当初から広く読まれていました。ダーウィンは私達が忘れかけている ― 「科学は科学者だけのものではない」ということを理解していたのです。ありがとうございました(拍手)
最後に
偉業の裏に「哲学朝食会」あり。C・バベッジ、J・ハーシェル、R・ジョーンズ、W・ヒューエルが、証拠に基づく機能的方法、公益のための科学、新しい科学団体、外部からの資金援助を発明した。しかし、専門家集団になってしまうとそれ以外の人との間に壁ができる。「科学は科学者だけのものではない」。ダーウィンの『種の起源』に学ぼう。
TED公式和訳をしていただいた Kazunori Akashi 氏、レビューしてくださった Mamoru Ichikawa 氏に感謝する(2013年4月)。
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