前回は、「失われた10年」と「民の萎縮、官の拡大」 改革後の資金の流れの変化についてまとめた。ここでは、郵貯・資金運用部の歴史と郵貯シフトの要因 郵貯の経済分析について解説する。
1 郵貯・資金運用部の歴史
現在の先進国の経済は、民間部門と政府部門の経済活動によって支えられていることから「混合経済」といわれている。その中心的役割は民間部門だが、政府部門が民間部門を補完し市場をうまく機能させるための役割もある。そうした政府が行う経済活動を財政という。
財政活動の原資は租税が基本だが、公債を発行して投融資活動を行うという広い意味での財政活動であり、財政投融資も財政活動の1つである。財政投融資の中核の財源である「郵便貯金—資金運用部」というシステムの歴史は明治時代にさかのぼることができる。
1871(明治4)年、前島密の建議で郵便制度が発足し、1875(明治8)年、郵便局で貯金業務が開始された。1878(明治18)年から郵便貯金は大蔵省国債局に預けられ運用されることになり、1885(明治18)年には、大蔵省預金局が設置され、国庫勘定中に「預金部」が設けられた。
草創時代(1885(明治18)年まで)
預金部は準備金制度の中から誕生した。1869(明治2)年、大蔵省において、紙幣及び公債証書の回収準備のために、不要品売却代金その他雑収入による一種の積立金が創設された。1872(明治5)年、「準備金規則」を定め、準備金と改称され、1876(明治9)年、大蔵省国債局は官庁その他からの受入れ現金を、預金として整理した。
預金規則時代(1885(明治18)年から1925(大正14)年まで)
1885(明治18)年、預金規則の制定により、預金の根拠を与え範囲を明確化し、駅逓局貯金、特別会計の余裕金、積立金を預金部に集中させた。預金部の原資は、郵便貯金が低調であった1890年頃を除き、6〜8割は郵便貯金だった。また、1910年頃から国内事業資金の供給や対外投資に充てるため、特殊銀行街社債の引受などが増加した。
預金部預金法時代(1925(大正14)年から1951(昭和26)年まで)
1925(大正14)年、預金部預金法制定により、預金は法律・勅令により預金部に預け入れすべき根拠を持った現金及び郵便貯金で構成され(預金部預金法第1条及び第2条)、預金部預金に預金部特別会計の積立金と余裕金を加えたものを「預金部資金」と称した(同法第4条)。大蔵省預金部は1942(昭和17)年に資金局となり、翌43(昭和18)年には理財局に吸収された。預金部の原資は、安定して7〜8割は郵便貯金だった。
1926(大正15)年に簡易保険事業が開始され、その積立金については、預金部預金とは別に逓信大臣において運用されることとなった。ただし、1943(昭和18)年以降、契約者貸付と地方公共団体貸付を除き、大蔵省預金部に預け入られることとなった。
資金運用部資金法時代(1951(昭和26)年から2000(平成12)年まで)
1951(昭和26)年、資金運用部資金法が制定され、資金運用部資金法の目的は「郵便貯金、政府の特別会計の積立金及び余裕金その他の資金で法律又は政令の規定により資金運用部に預託されたもの並びに資金運用部特別会計の積立金及び余裕金を資金運用部資金として統合管理し、その資金を確実且つ有利な方法で運用することにより、公共の利益の増進に寄与せしめること」となった(資金運用部資金法第1条)。
資金運用部資金の原資は、厚生年金・国民年金の割合が3割程度まで増加し、郵便貯金は6割弱となっている。
2 郵貯シフトはなぜ起きたか
郵貯シェア(郵貯残高/(郵貯残高+銀行預金残高))の長期的な推移を見ると、郵貯の発足当初は30%近いシェアであり、現在でも25%前後のシェアを持っている。郵貯シフトが起きた要因は、①利便性、②金融機関の安全性、③店舗が全国ネットであるかどうかという3つで選択されている(各種アンケート調査結果)。ただし、金融理論から見ると、郵貯金利が銀行預金金利より有利になることが多いからである。
定額郵貯の金利ルールは、1992年12月の金利自由化解禁を境に大幅に変わった。以前は、規制金利体系の下で、定額貯金の利率(預入後3年経過時の利率)は民間の2年規制定期預金利率と同一水準としていた。そのため、短期金利が複利運用される結果、定額貯金の有利性がいっそう高まっていた。
以後は、定額郵貯の利率は「3年定期金利×(0.90〜0.95)」または「10年国債金利—0.5%」の低いほうとなった。順イールド(金利上昇)時にも逆イールド(金利下降)時にも比較的対応できるため、合理性が増した。
郵貯シフトは郵貯経営も不安定にしてきた。1991年以前、逆イールド時に集まった郵貯は、3年間は段階金利なので適用金利が低いが、3年を超えると高金利になって経営を圧迫してしまうのである。
最後に
郵貯・資金運用部の歴史は、殖産興業や貯蓄思想の早期普及という国家目標から始まった。その後、第一国立銀行から大蔵省へ全額預託されるようになり、有利な金利設定により郵貯シフトが起こった。しかし、それは同時に郵貯経営の圧迫を意味していた。合理性のないものは続かない。
次回は、いまだ道なかば 財投・郵貯・政策金融改革の経緯と現状についてまとめる。
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